item 谷崎潤一郎とマゾヒズム

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written 2007/2/27

中公文庫の『潤一郎ラビリンス』集中「近代情痴集」所収の「お才と巳之介」が印象に残った。
お艶殺し』(中公文庫)と同様、美しい女に惚れた男が騙され、最後にはさんざん愚弄されるが、それでも女を崇拝する心は変わらず、彼女を追い求め続ける。といった筋の物語。
徹底的に嘲られる場面が私には非常に印象深く、それは心を傷つけられるような感じで精神の奥ふかくにずっしりと重く沈む。
谷崎は自覚的な「マゾヒスト」であったようだが、私にはそういう性癖はない。どちらかというとサディスティックな方かもしれない。女性が私を騙しているようなそぶりを見せたり、自分を嘲笑しようものなら、相手がどんなに美しかろうが私は激怒して暴れる方だろう。
だがその反面、そうした「なぶられる」というイメージが私に強烈な印象をもたらすのは、ひそかにマゾヒスティックな要素をも併せ持っているのかもしれない。

というのはドストエフスキーの『白痴』や『永遠の夫』にも、同じように主人公が「なぶられる」場面があってこれまた極めて印象深い。ここでも主人公は「やりかえす」ことのできない哀れな男たちで、完膚なきまでに嘲弄される。ドストエフスキーの場合は、谷崎のような性的な匂いはないのだが、マゾヒズムが必ずしも性を契機としない深層の欲求だとすると(それでもやはりそれは性に由来するのだ、とフロイトなら言うだろうが)、これらの文学的体験はおなじようなレベルに立っていると見ることができる。
こうした小説内の「場面」は、むしろ自尊心の強い私の心を傷つけ、トラウマとなり、かつ、その苦痛の感じが逆に快いとおもっているのかもしれない。

谷崎の主人公の男性たちは相手にどんなに呆れられても、執拗に女性を崇拝し続ける。
この「崇拝」という気持ちも私には無いものなのだが、そのように哀れな、「失墜した自己」という像の強烈さに、惹かれている。自尊心が強いから決してそのようにありたくないのだが、その像に魅せられるという面もあるのだ。
考えてみればホラー映画なども、「なぶられる自己」を感覚的に体験させるものだ。人々がそこに惹き付けられてゆくのは、やはりそうした体験がなにか強い磁場を持っているからかもしれない。
それを「マゾヒズム」と呼ぶべきかどうかは、わからない。

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