item 2024作曲個展開催へ

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written 2023/5/26

 来年2024年の9月か10月に、札幌において、私の「作曲個展」なるものをおこがましくも開催するべく、準備を始めたところである。
 そんな大それた、愚かな、と言うべきことではあるが、相当の出費を覚悟して新しい音楽的段階を生み出すための、これはかなり大がかりな試みだと思っている。

発端

 1人の現役作曲家の作品ばかりの演奏会で、たぶんその作曲家自身の主催によるものを作曲個展と呼ぶらしい、ということも最近知ったばかりだ。
 そんなの自分には縁遠いような夢でしかないと思ったが、1人の個展が無理でも、誰かと組んで2人展、3人展とか出来るならやってみたい気がしていた。
 が、SNSの中で、それならごく小規模の、30人程度の会場から試しにやってみては?とのご意見をいただき、なるほど。と、思った。
 が、実際やるならば、一昨年今野さんご夫妻に演奏していただいた「ワーズ・ブロックス」の再演も入れたいなという点が頭にあり、そうするとグランドピアノのある場所でなければならない。私の電子楽器類とヴァイオリンなどとの共演だけでいいならライブハウスみたいなとこでも可能なのだが。
 さてグランドピアノのある会場となると、クラシック向きのホールになってしまう。
 苫小牧ではお客さんが全然来ないことは以前のマルガリータのコンサートでつくづく思い知らされたから、札幌の方がいい。札幌ならまだしも幾らかお客さんが入るかもしれない。
 札幌市内のピアノのある小ホールを探してみた。これが意外と少ないのだ。もっと大きな、300人以上の規模の大ホールの方が多いくらいである。
 会場は出来れば地下鉄で行けるくらいの便利な場所がいい。これは自分自身が大抵はJRで札幌のコンサートに行く習慣なので、当然という感覚がある。円山などでコンサートがあってもどうも行く気になれないのだ。
 こんな贅沢な条件で適合する会場はほんの少ししかない。札幌駅からすぐそばにあるカワイの「Chou Chou」というホールは50人規模で、なかなかふさわしい。けれどもここは調べてみると控室が無いらしく、自分の構想(ただの妄想から始まっていつの間にかじっくり構想し始めていた)では女性の演奏家が複数いるので、控室が無いのは困りそうだ。
 ホールの響きの問題も難しい。声楽曲などのクラシックは音が豊かに響くのがベストだろうけれども、自分が持ち込んで鳴らそうと思っているスピーカーからの電子音は、むしろ乾いて反響のあまり無い場所の方がやりやすいような気がする(経験が無いので気がするというだけだけれども)。できれば音響に詳しい方にアドバイスをいただきたいところだが・・・・・・。
 

構想が深まってゆく

 バリトン声楽曲「ワーズ・ブロックス」を初演していただいた今野さんご夫妻に連絡を取り承諾をいただいた辺りからこの企画は来年秋実施目掛けて俄然現実味を帯びて来た。
 すでに私を除いて7名もの、日ごろ素晴らしいご活躍をされている演奏家の方々に内諾をいただいた。もう、これは「やらなければならない」に切り替わった。
 もとより私に集客能力があるわけがなく、当日はせいぜい10人程度のガラガラ状態をイメージしている。会場が決まっていないので何分の10かは未定だが。
 最初からチケット収入は当てにしておらず、私はこれを「生涯に一度の、特大の出費イベント」だと考えている。ぶっちゃけ50万円くらい出費する覚悟があるのなら、作曲個展は実施可能なのである(もっとも、チラシ作成や合奏練習の場所代・交通費なども再計算すると50万では済まなそうだ。たぶん80万までは行かない)。
 普通演奏家さんたちはある程度元手が取れない、大赤字のコンサートなんて避けるのだろうが、私の場合は最初から生涯の一発勝負としての大出費を見込んでいるからお客さんの来ない不安はあまり無い。あまりにも少ないと演奏者さんたちに申し訳ないと感じるだろうけれど。

コンサートの内容は

 やはり入場料は幾らかもらうことになる。しかし私の音楽に金を払う価値なんか? それでも、来てくれそうな演奏家たちはみな一流で、その演奏を聴くのにはお金を払う価値がもちろんある。たぶん相場どおりに、3,000円かせいぜい4,000円くらいのチケットになるだろう。
 かつて自分の音楽でお金を貰ったことはなく恐縮な感じもするが、そこは演奏者たちのギャラの一部として、と割り切ることにする。

 曲目はクラシックスタイルの声楽曲、室内楽の他、私が電子楽器を操作してソロ奏者と共演するタイプの曲もやる予定。クラシックから現代曲、エレクトロ・(歪)ポップまでと多彩。その分、ちゃんとサウンドを高水準にまとめられるかどうかという点には不安が大きい。そういうエンジニアとしては私はまるきり素人だし。
 ほとんどの曲は、今年中に書くつもりの新曲だが、古いものとしては「前衛スギルキミ」も新しく歌いやすくアレンジし直してやるつもり。ボーカルのLalamiさんが参加してくださる予定なのだ。ならば、ということで、最後は全員参加しての合奏で懐かしの「Melancholie」で締めたいと考えている。
 万一Lalami さんの都合が悪くなったりするととても困ることになりそうだが…。
 クラシック演奏家ばかりの中で異彩を放つサブカル系シンガーのLalamiさんを上手に活用させていただけるよう、色々と考えてはいる。曲間は私は電子機器のセッティングで忙しそうなので、何回かのMCをお願いすることになるかもしれない。

コンサートの「意味」

 無謀で不遜、思い上がった愚行にも見えるこの企画。だがその「意味」は私にとって物凄く大きい。
 もともと音大等でなく、独学でいい加減に・勝手にやって来た私の作曲行為は、常にシーケンサーやパソコンと向き合っての孤独な作業であり、DTMというこの「ひそかな趣味」は、音楽という文化事象の間主観的性格を欠くことになりがちだ。(もっとも厳密に言えば、孤独に作曲するあいまにもクセナキスだのドビュッシーだの、CDで聴くことの出来る音楽作品たちと絶えず心的に往還していることも確かであり、ゆえに無からの創造ではなく、やはり何らかの「関係性」から芸術は生まれてくるのである。)
 音楽は、リアルにローカルな一定の場所と時間を「占有する」ことで、居合わせる人々のあいだに心的な何物かを共有させる「できごと」として意味化し、人類史に維持されて来た。
 生身の他者との直接的な関わりを必要としないDTMというテクノロジーは、そのような文化的特質を持つ音楽を奇妙な形に歪める場合があろう。もっとも産業的に成立しうる音楽シーンにおいては、そのようなテクノロジーさえをも、人々の関係性を構成しうるものとして活用しているのだが、それは無論、商業的プロフェッショナルの話である。
 アマチュアのDTMクリエイターというものは、作ったものをインターネットで公開し、多少反響があった場合、幾らかは他者と交流もするのだが、あくまでもインターネットなのでそこでの他者は生身の人間としての重さを持っておらず、どこか不自然なコミュニケーションに止まる場合がほとんどだろう。
 来年秋にやろうとしているコンサートは、リアルな人間関係性に基づくからこそ、リアルな出来事として出来する。そこにこそ、リアルな関係性としての音楽が生まれなければならない。
 私はすでに知っている演奏家の方たちを想定して、今、新しい曲を書き始めている。「何でもできちゃうコンピュータ音楽」とは異なる制限が生じてくる中で、その制約の中に飛び込むことで、私の新しい音楽が生まれ「なければならない」。たとえば、コンピュータで作っているために私の曲は(特にピアノが)著しく演奏しづらいらしく、演奏して頂くにあたって多くの練習時間を課すことになり、それは申し訳ないので、今回は「あまり難しくならないように」とりわけ気をつけて書いていきたいと思っている。
 来年に考えている私にとっては一世一代の大事業となるこれは、新しい何かで「なければならない」のだ。

 会場を実際に取らなければ正式には決まらないが、今のところ2024年9月23日(月・祝)あたりを想定している。
 会場はまだいろいろと迷っているところだ。

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