item 「まどろむソフィー」初演 - ステージ上で存在スルこと

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written 2023/9/10

 ヴァイオリンと電子楽器のための「まどろむソフィー」は、最初に完成したのは今年の3月5日。このときは、スピーカーやPCの他は8トラックマルチティンバーのバーチャル・アナログ・シンセ、Waldorf Kyraただ1台を使用する設定であった。ヴァイオリンの生演奏と同時に、Kyraのツマミなどを動かして「リアルタイムな機器操作」をコンサートで演じようと思っていた。
 が、聴き返してみると、やはりアナログシンセだけだとサウンドが古くさい感じがして、これにサンプラー、デジタルシンセ、エフェクターなどを次々に付け足していき、音楽のブラッシュアップを図った。
 結果的に機材がやたら増えてしまい、札幌のレンタルスタジオでの、ヴァイオリン山本泰子さんとの「合わせ」練習に行くのでも、家で機材の接続を全て外し、車の後部に積み込み、スタジオで再度機材を接続し直すという作業が大変で、暑い中を汗だくになってやらざるを得なかった。

9月3日、第9回北海道の作曲家展


 さて、今年9月3日(日)、札幌市のザ・ルーテルホール、北海道作曲家協会主催「第9回北海道の作曲家展」本番。
 前日から札幌に泊まっていた私はいち早く会場に乗り込み、ピアノの調律をやっている最中に、ステージで機材を組み立て。その後、午前中にゲネプロ。
 こうした電子音響を用いたステージでは、きっとボリューム調節がキモになるだろう、と予期していたものの、ゲネプロでのプレイでは電子音響の音が大きすぎて、聴いていた方々からも不評だった。「本番だから」とスピーカー側のボリュームを上げすぎてしまい、手元のミキサーでの微調整が出来なくなっていたのだ。
 この原因に思い至り、出番直前の休憩時間中にスピーカーの音量を下げた。が、休憩でも会場にお客さんがいたので、音出しはそこそこで止めといたのだが、今思えばこれが失敗で、メインとなるKyraのサウンドチェックをしなかったことがトラブルの原因となる。
 本番。
 さあ演奏スタート、とPCのDAWのスイッチを入れると、何やらヘンテコなサウンドが流れ出す。慌てて止め、機材を見直してもう一度スタートさせたが、やっぱりダメ。痛恨のトラブルである。
 どうもKyraのサウンドバンクがおかしくなっていたようで、Kyraの電源をいったん切って再起動。これでようやく本来の音になり、演奏が始まった。  ボリュームバランスはゲネプロのときよりは良くなっていた。が、サウンドがクレッシェンドして高まるたびに、ボリュームが気になって仕方がなく、予定していた操作の幾つかは飛ばしてしまった。
 ヴァイオリンの山本泰子さんは、とても良い演奏をしてくださった。

 終演後の「打ち上げ」で、何人かの作曲家会員の方から、本番でのボリュームは良かった、と励ましていただいたが、数日後、会場で録音していた音源を聴いてみると、私のイメージから言うとまだちょっと電子音響のボリュームが大きい。
 沢山の作曲家の作品を沢山の演奏家が演奏するコンサートなので、ゲネプロでは10分くらいしか時間が無く、じゅうぶんにサウンドチェックを仕切れなかったのが悔やまれる。
 来年の9月に計画している私の作曲家個展では、このへん、じゅうぶんに気をつけたい。曲ごとに音量が異なりそうだから、そこに不安も感じるが・・・・・・。

「夢のような」、「死としての」コンサートという祝祭

 コンサートに「出演」したのなんて、学生時代以来だ。
 私の作品を演奏いただく演奏会に、これまで何度か拝聴しに行き、そのたびに「夢のような体験」と感じたものだった。
 私はずっとコンピュータとかシーケンサーを相手に黙々と曲を作っていて、それを発表するのもインターネットだけだった。だから、私の作品がリアルなコンサート会場で演奏されるのに立ち会うという出来事は、私の「日常」には収まりきらない、「夢のような」出来事であったのだ。
 今回は、機械類の操作者として自らステージに上がるという、さらに「奇妙な体験」であった。これはもはや、「夢」ではなく、生々しい日常生活の延長線上に生じた出来事だった。ステージ上に存在スル、というその飛躍的な行為に、私は眩暈を覚えた。そしてそこでの失敗は、生活史上のリアルな傷となって残る。私は傷を、私の血を、死を、聴衆たちの集うこの場所に捧げるのだと思った。

「夢のような」コンサートは私にとってはまさに非日常の祝祭であり、コンサートに出演する演奏家はマツリを司る司祭のようでもあると同時に、カーニバルにおける「生け贄(スケープゴート)」のようにも考えられた。私は今回、自ら志願してまさに生け贄となり、公衆の面前で死ななければならなかった。
 では年間に何度も出演するような演奏家は、年中死んでいるのだろうか?
 この仮構的な祝祭の場では、きっと虚構としての死が演じられ、その死は聴衆たちの記憶に刻み込まれる。「死」であるというのは、それが再現されることの無い、一回的なものだからだ。そこに死があるからこそ、人びとはコンサートに赴き、それを受容し、自らの日常の生を蘇生させようとするのではないか?
 
 失敗やトラブルに見舞われたことから、自分で思っていた以上に私はダメージを受けていて、何日も悄然と過ごした。だが、来年はもっと大きな「死」を体現しなければならず、そのためにやるべきことは沢山ある。
 もう会場も予約した。
 2024年9月23日(祝・月)、今回と同じ札幌市のザ・ルーテルホールにて、コンサート「周縁のポエティカ・2024」を開催する。

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