item 空虚さのエクリチュール:倖田來未と泉鏡花

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written 2006/6/5

倖田來未試論・3

倖田來未という現象はふかい空虚さを表象している。

彼女の歌には、歌唱に関して相当の技術が見られるのに、音楽としての高度さや深さはまるでないという事実。エモーショナルで、こんなに心に訴えてくるのに、訴えてくる中身は実はまるでないという、不思議な空虚さ
この空虚さを評して、「ガジェット」と私は言った。
しかしそれ以上に、この空虚な感じは、何か類似した他のものを想起させる。

ひとつは三島由紀夫だろうか。
三島由紀夫の文学はたしかに空虚だが、彼の場合は批評性というものがあるので、倖田來未とは結びつかない。
では、誰か。
泉鏡花である。

(なんと、鏡花と倖田來未を並べて論じるなどというのだから、これはちょっと冒険だ。だがこの飛躍のおかげで、この言説じたいがめでたくガジェットとなるのだ。)

鏡花の文学というものは、おどろくべき言葉のアクロバットである。絢爛たる言葉のゲーム。そのエクリチュールの表層の質感のほうが本質であって、中身(プロットやそこに潜むとされるメッセージ、テーマ)はさほど問題にならないのだ。
お化けの話だろうが、市井の人情話だろうがかまわない。要はエクリチュール自体の「」が問題なのだ。

歌唱をエクリチュール(書かれたもの)とは通常呼ばないのだが、CDメディアに「記録」された彼女の「声のエクリチュール」は、やはり鏡花のエクリチュールと同様に空虚で、それでいて濃密なエクリチュールだといえるだろう。
しかしこの「」がひとすじなわでいかないのは、J-POPの楽曲が「歌のうまさ」だけで評価されているわけではないからだ。
過去のアルバム、せいぜい1〜3枚目においては、彼女は恵まれた楽曲(メロディー等がキャッチーさにおいて優れていた)のおかげで、ガジェットなりに卓越した地点にまで到達していた。

この空虚さのエクリチュールの徹底ぶりは、彼女のヴィジュアル面にも現れている。
倖田來未(に限らず最近の若い女性はみんなそうなのかもしれないが)は非常に頻繁にメイクを変えるので、そのたびに印象がまったく変わってしまい、「いったいどれが本当の倖田來未なのか」という戸惑いを覚える。
眉毛の形だって自由自在に変わってしまうのだ。

この空虚なビジョンがきわだつ典型的な曲「Butterfly」では「(わたしが)化粧(歌詞中では ネイルに新しいグロス [Butterfly 作詞:Kumi Koda 作曲:Miki Watanabe])を変えたら(日常の)何かが変わる 」という、たったそれだけの世界観が語られているのだが、この、女性特有の(それは現代においてますますきわだっているのかもしれない)「化身の本性」としてのイデオロギーはおそろしく空虚であるとともに、魅力的でもある。
泉鏡花が愛した女性像も、そのように心理や一種のモラル(というか思想性)を欠いた、「表層としてしか存在しない女性」なのである。

PVやライヴパフォーマンスでは彼女はまた別のエクリチュールを見せる。 ビジュアル面での倖田來未は、まあ、セクシーさを売りにしているようだ(TV番組のトークではやたらおしゃべり・早口でお調子者っぽくもある軽薄さを見せる)が、それはなかなか完成されたレヴェルに来ているようだ。(だがこの面では卓越してはいない)
身体的なパフォーマンスのことをエクリチュールなどとは言わないはずなのだが、かまわない。
この華美で空虚なエクリチュールは、その音楽の本質と同様、「サランラップ」のようにうすっぺらで美しい光沢をもつ。その輝きがまもなくやぶれさるだろうという予測など問題にするべきではない。

鏡花が愛した女性像のように、倖田來未ははかなく消えてゆくだろう。
いや、鏡花なら、倖田來未を愛していたにちがいない。

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