item 選好と多様性(音楽試論2)

textes ... 思考

written 2016/8/7

 音楽の価値を測定する概念は幾つがあるが、そもそもの価値観の次元が異なるため、どれもなかなか普遍的とは言えない。その点、すこぶる便利なのは「音楽的だ」「音楽的でない」という表現だ。これは全く何のことを言っているのかわからないし、言っている本人も詳しく説明できっこないのだが、直観的に出てくる判別の言葉として、実に有用である。
「この旋律のあとにこうなるのは音楽的でない」
「一見無作為な音の配列のように見えるが、これはとても音楽的だ」
 詳しい意味は不明なのに、言われてみれば、ああそうかと納得してしまう。
 様々な価値体系、理論が入り乱れる現代音楽にあっては、本当に便利な尺度だが、これを会得するのには、それなりに音楽的経験を積んで、感覚を磨かなければならない。だがどのように会得するかとなると、人それぞれで、結局は十人十色な結果を招くような気もするのだが。

 人は自分の「選好」をひどく大切なもののように考え、それが必然的に選択されたものであったかのように錯覚する。
 じっさいの心の動きを見てみると、たとえばある商品やあるタレント、ある楽曲を自ら選択し、「これを私は好む」と宣言するとき、それは本人が思っているよりも偶発的なできごとだ。気分の変調、その日の生活状態、身体状態、記憶、イメージ、さまざまな要因が重なって「選好」現象が出来する。私も、あるとき聴いた音楽は全然好きでなかったのに、別のあるとき聴いて大好きになる、という体験を沢山してきた。
 選好を重ねてきたその人の「歴史」により、その人の「選好」のアイデンティティが決定した、と彼は思っている。だからそれは必然であり、自分自身の大切な「自分らしさ」の一部だと。
 だからうかつにも、人がえらく気に入っている音楽家をちょっと批判すると、予想外に怒られたりする。彼は「選好」=アイデンティティが傷つけられたと感じて憤激するらしい。以前、悪い意味ではなく「ピアソラの通俗性」などとどこかに書いたら、ピアソラが大好きらしい人が激しく怒って、その後も執念深く私をつけまわして逆襲してきたことがある。
 だがこのように閉鎖的・保守的に自己の「選好」ばかり守っていると、より豊かな「他の(背景の)世界」の実りを見逃してしまいかねないし、何よりも、無数の他者たちの無数の選好という<多様性>に背を向けてしまいかねない。たとえば、ラッヘンマンとかシュトックハウゼンみたいな前衛音楽しかぼく認めないもん、なんていう大学教授とか出てきて学閥を支配したりする。
<多様性>こそは民主主義と個人自由主義によって近代西洋の「理性」が勝ち取ったものだ。
 多様性、そしてそれを保証するための「他者への寛容」が失われるとき、社会は民主主義を放棄し、自由を蹂躙し、全体主義国家に憧れ、外部への憎しみの爆発を望んで戦争へと向かうだろう。今の日本の状況はこれに当たる。だからヒトラー的思想に基づいて発達障害者の生存権を全否定し、虐殺を決行する若者が出たり、「あの犯人(容疑者)の言うことも、もっともだよな」などという同調者が続々と出てきたりするのだ。
 しかしこれは余計な話だった。

 さて楽曲創作という本題に、最後にやっと移ることにする。
 十二音主義作法上の間違いを、自分の楽曲上に指摘されたシェーンベルクが、「それがどうだというのです?」と返事した、とのエピソードは実に印象的である(フライターク著『シェーンベルク』宮川尚理訳、音楽之友社224ページ)。
 理論の提唱者であったシェーンベルクが、理論自体の無意味さを理解していた。理論は創作する際に便宜的に利用される、<交換可能なもの>であったのだ。
 20世紀以降、実にさまざまな理論だのリクツだのがあって、それが非常に重大なことであるかのように言説が張り巡らされてきたが.どのようなスタイルを試そうとも、ストラヴィンスキーはストラヴィンスキーであり、ケージはケージであり、ペンデレツキはペンデレツキだと私は思うし、そのことの方がよほど魅惑的な真実性をもっている。
 ふつう、どの作曲家も、一定のセオリーに従いながらも音の選別・最終決定にあたっては、自らの音楽的直感に頼っていると思う。
 つまり、「どうすれば音楽的か。あるいはどうしたら非音楽的か」という、あのものさしが最終判断の権利を持っているのだ。
 この「音楽性」判断は、ひょっとしたら自分だけの思い込みなのかもしれないし、いや逆に、とても普遍的で、多くの人々と共有できる判断なのかもしれない。それは事後に社会が決める。
 結果的に独りよがりの判断があったとしても、<多様性>の観点から、これをいきなり退けてしまうのは性急だ。社会は(無数のごく少数意見という)ノイズを必要としているし、それを踏まえつつ、多数意見の波がゆらぎながら変容を重ねて行く。
 
「音楽的/非音楽的」判断は非常に身体的なものであって、いかなる理論もこれを解明できない。強いて言うと、楽曲においてある種の「一貫性」や「統一性」が維持されつつ、かつロジカルに合理的な展開を併せ持ちうる状態を「音楽的」と言えるのではないかと思うが、もしそうだとしたら、ニクラス・ルーマン的な意味で「音楽システム的」という表現を使用できるかもしれない。つまり、自己準拠的な音楽要素の集合が、統一的な閉鎖系としての音楽を持続させながらも、自己生成的に(オートポイエティックに)みずからの身体=音楽を構成しているように見える、という状態である。

 私自身は、特定のセオリーに従うことなく、いわゆる「自由作曲法」によって、とりあえずは「自分が選好するような楽節」を出発点として、無意識がたどるような紆余曲折を軌跡として示すような書法を採用してきた。
 しかし私の従来の作品は、何らかの点において、稚拙にも「非音楽的」であったような気もしている。つまり私の音楽は気ままにラプソディックすぎて、必ずしもシステマティックなオートポイエーシスを体現できなかったのではないか、という反省に今、包まれている。
 そもそも「選好」などという不確かさ、偶有性に根拠を起きすぎたのは良くなかったのではないか。
 では、なんとなくの「選好」に頼らずに、どのように書くべきだったのか。次回はその作曲システムそのものについて、論述を試みよう。

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