item 主体と音楽 - 私はプロセスである

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written 2014/11/9

 私が音楽を組み立てる際に或る音の採用を決めるその方法は、まず基本的に、その「音」が人間/私/楽曲全体のコンテクストにとって、どのような意義をもち、作用するかという点が最も考慮される。こうした考え方は、そういえばプラグマティズム<哲学(パース、W.ジェイムズ、デューイ)の考え方に近い。
 どの音(音色、リズム、旋律的まとまりや和音)が人間の生理にどのように作用するかについては、残念ながら現在の脳神経科学でもほとんど探究されていない。このため、私たちは結局、自身の経験則にもとづいて、音楽の効果・作用を把捉する以外にないのが現状だ。
 けれども、自分の好みに従って「自由に選好する」というその主体のあり方が、徹底的に疑問に付されたのが20世紀だった。19世紀ロマン主義の音楽やもろもろの近代文学における「主体(の一貫性)」は執拗に無効化され、解体された。フロイトによる「無意識」の強調。他文化との比較によって明らかにされる「常識」的人間認識の土壌のまやかし。構造主義による主体の消失(フーコーによる「主体の死」宣告)。脳科学による「意識」神話というウソの暴露。社会心理学による主体的「意志」の独立性の否定。
 さらには、経済分析や国家・国際政治の論理において、人間の人間性は捨象され、ただ単に統計学上の数値に収斂させられるためだけの極小の単位であるかのように、人間「存在」は卑小化された。この世界観・人間観は先進国文化すべてを支配し、今後もますます状況は進行するだろう。

 現代音楽「史」においても同様の、主体への去勢攻撃が流行したのは、20世紀文化の一角として当然の流れであった。
 ジョン・ケージは「作品」「作者」「意味」「確実性」「選好」といった近代的要素をことごとく宙づりにし、おおきな疑問符を突きつけると共に、東洋的な「無」に接近した。
 12音主義からトータル・セリエリズムなど各種の「セオリー」は、主体的選好を排除するという面で意義をもった。このような「セオリー」主義は、セオリーそのものには(構造主義における「構造」そのものと同様に)なんの意味もないように思われる。

 私は主体の抹殺というこのテーマ(20世紀が打ち出した主題)が好きだ。エリクソン式の「アイデンティティ」論には吐き気がするし、自己も、同一性も、こまかく千切れて霧散してしまえばいい、と思っている。
 徹底的な自己抹殺を作品の中で果たしたのはフランツ・カフカである。あそこまで徹底的に自己否定を貫徹できた芸術はそうそうない。それゆえに、彼の作品は謎の衝撃をもち、20世紀以降の文化全体を予告したのである。


 しかし、21世紀に入っても人類は滅びることなく、生き続けるのだ。「個人」(生命ある個体)はどんなに否定を浴びせられようとも、確かに存在する。統計学的データ内の極微の点、あるいは、宇宙の塵のように無意味であると同時に、生命はまさに一個のものとして、絶えず豊かな生成をつづけ多様性へと展開する一個の無限として、存在する。このような主体は、西田幾多郎ふうの絶対矛盾的自己同一としてしか表現しようがない。西田っぽく言うと「主体はどこまでも存在しないのであると同時に、どこまでも存在しなければならない」のである。

「主体」の復活を願う声は、たとえば最近の日本国内事情で言うと、不気味な「ネトウヨの」台頭がある。彼らは「日本」という(あいまいな/幻想の)複合概念を恣意的に切り取って擬人化し、これをひたすら増強・肥大化させようと欲望しているのだが、これは「個人の復活」ではないだけにいっそう不気味である。彼らは個人として主体を復活させようとはせずに、自分も所属するところの集団がかかげる共同幻想を、極めて一面的に個性化して、復活させようとしている。彼らは個人が死んでしまったという社会の前提を受け入れた上で、個人とは異なるところで<幻想の主体>を構築しようともくろむ。そのため、彼らの思考の中には、個人という単位で成り立つ生命なるものが存在しない。集合的自我のみを求めるならば、個人間の差異は排除しなければならないからだ。しかもここで目指されている集合的自我は、多様性・多面性・多義性を一切持たない、二次元的に固定されたシンボルである。


 前述のようにプラグマティズム的に、主体への「作用」を中心に考えて組み立てられた私の音楽は、現代音楽の「最前衛」の人びとから見ればきっと古くて陳腐で、価値のないものと見えるだろう。私の音楽はいかなるセオリーにも基づかず、自由気ままに書かれたものだ。
 とはいえ私は単純に私的な「選好」のみによって書いているわけではない。20世紀文化から生まれてきた私は、自己の一見明白な選好や情緒性をメタレベルで捉え直し、非=自己的な、他者的な要素を介入させる。従って音楽は、断絶や飛躍、ねじれに満ちたものへと近づく。故意にランダムな音の配列を持ち込んだり(しかしクセナキスの音型ほど破壊力は出てこないが)、自分が最初に書いた方向とは別の方向に音を書き直したりする。
 私は安直な自己同一性に留まりたいと思わない。自己というものがあるとすれば、それは絶え間なく変転し自らを更新していくプロセスそのものでなければならない。そして、「私の音楽」とは、持続中の歴史的自己と他の(他者の)音楽との関係性、その関係性の変容と、それによる自己性の再生成のプロセスでなければならない。

 私は生涯あくまでもアマチュア作曲家であり続ける。ということは、音楽史という共通認識(幻想)からくる「責任」に一切縛られずにすむということだ。私にはいかなる使命もないし、シーンへの支配欲も、野望もない。けれども、現在の文化を生きる人間として、私は私なりのやりかたで「現代性」を体現している部分もあると思う。
 私の創作は極めてプライベートなプロセスの開示である。プライベートだから、それは「現代音楽のシーン」(幻想)のコンテクストにまったく適合せず評価されないかもしれないし、あるいは、「現代音楽のシーン」という他者とのせめぎ合いで私の主体的特質がたまたまうまく更新されれば、他者に認められる可能性もゼロではないかもしれない。私の創作行為がそのような有意味にまで到達するのは、いつのことだか知らないけれど。

 結局、世界は変容し続けるプロセスの無限の総体であろう。各プロセスは、そして相互に作用し合っている。固定的な表象・概念はすべて疑わしい。固着することは主体の死を意味する。しかし人類は生き続け、主体というプロセスは連綿と継続される。音楽活動の点で言うと、私は私の「選好」を解体し、そこから絶対性を奪い去って、どこまでも他者性を追い求めなければならないだろう。


P.S.
 先日ここまで書いたのだが、今日追記する。この数ヶ月、矢継ぎ早に仕上げ楽曲を振り返ってみると、私はむしろ、私自身の「変わらなさ」にあきれかえり、失望している。
 いつも「音楽はつくる先から、私の手元から去って行く」と感じている。それは、作曲の過程で私が出会った音たちが、当初は新鮮で衝撃的な他者性の輝きを持っていたのに、ひとたび私がひねくり始めると、たちまちその輝きは失われ、いつもの「私のもの」に成り下がってしまうからだ。結局、主観に頼るとこうなってしまうのだろうか? 出口はどこに?
 それと、私の音楽がもつ情緒性は始末に負えないシロモノで、私自身、自分の音楽のその部分を気に入っていないのだ。ケージの音楽の木訥で平穏な響きはたぶん彼の人柄や世界観をよく表しており、それは私には無い境地だ。私は感情と理性が矛盾しあい、苛立ちをときに爆発させるような、不出来な人間なのだ。この人格は音楽にもよく現れているとおもう。この点、たぶん、バカは死ななきゃ治らない。

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