item エレクトロニカと死

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written 2010/4/23

 こないだ作った「反復 Wiederholung」は、自分ではなかなかの出来と思い、気に入っている。
 が、「エレクトロニカ Electronica」と銘打っていたものの、厳密に言うと疑問だ。
 Wikipediaで調べてみると、「広義のエレクトロニカ」は電子的音素を多用した音楽全般を指すので、これには該当するが、もっと狭義に言うエレクトロニカは、私が最近愛聴しているオウテカ Autechreのような、ほとんどメロディーらしいものがなく、しばしば非音階的・非楽音的・非構造的な、機械的ループによる執拗な反復を主体とした、電子的なサウンドを多彩に重ねたビート・ミュージックといったところだろう。

 機械的ループがそれ自体魅力となるのは、それが「死」の感触をわれわれにもたらすからに違いない。
 自然的なものの中には、「まったく同じものの反復」というのは、存在しない。だから「まったく同じものの執拗な反復」はそれ自体、極めて人工的・機械的・非人間的なものとしてのシーニュ(表徴 signe)であり、生ある者が死んでゆく、その荒涼とした場所を暗示する。死を内包するシーニュは、要するにシニフィエが空虚化したシニフィアンである。
 オウテカが導いてゆく「死」の世界像は、機械性のなかに主体が没入し、同化してゆくような感覚の先にある。表面は、奇妙な、あるいは不快な音に満たされている。しかもそれらのシニフィアンが、意味という深層を持たない。ほんらいいたたまれないはずのこんな空間に、なんとなく惹かれてゆくのは「現代人」だからだろうか? 社会は「死」を強固に隠蔽しているはずなのに、全面的テクノロジー化の波が、私たちに 「死」の影を取り憑かせてしまっているのだろうか。

 このような「死」の表徴を「クール」と感じる感性は、以前書いた「ライダーマンと仮面ライダーの差異」に共通する。無表情さ・不動さへの憧れとは、その深層に死=無機物への憧憬をひそめたものであるに違いない。

 そしてこの「単調な反復」は、なんと退屈なのだろう。
 だが、今や退屈さだけがリアルなのだ、というのが、ポストモダンの教訓だった。
 純文学は、まさに退屈でなければならない。現代音楽も、退屈さの内側にいなければならない
。  退屈さと対立する「大きな物語」(感動を呼んだり青臭い教訓を招いたり、観念的な世界把握=形而上学を必然化するような物語)が凋落したところから、「現代」は始まっている。「物語」が持つ「うさんくささ」を捨象してゆくと、かならず「退屈さ」に到着するだろう。(しかし一方で、私たちは退屈さに耐えきれず、「物語」を刹那的に楽しむことをやめることができない。)

 オウテカ Autechreの魅力は、退屈さと共に、サウンドの凝った・斬新な実験(あるいは遊び)である。ただしそこには、エモーショナルな上昇も歌い出したくなる感じも、ダンスミュージックとしての実用性すらない。
 それに対し、私の音楽は常に物語性を持っており、「Wiederholung」さえ、上昇する物語としての構造を失っていない。その意味で、死や退屈さを、自分はどこかで恐れ続けているのだ。

 機械的なビート/ループ一般は、もちろんエレクトロニカに限らず、ポピュラーミュージック全般に広がっている(ジャズ、クラシックを除く)。
 これは確か80年代以降きわだっていったとおもうが、いつの間にか演歌にまでビートが利用されている。
 なぜ現代人はこんなにまで「ビート」に依存するようになってしまったのか?

 曲の最初から最後までほぼ全域を覆うビートは、1個の持続であり、すなわち楽曲のわかりやすい「同一性」を表している。楽曲を貫徹する一連のビートは、別の曲の別のビートとの差異を明確にすることで、楽曲という統合的身体を浮き彫りにするとともに、音楽の持続する「時間」を規定する。
 確立された「音楽の時間」は人(聞き手)の意識や動作の状態にかかわらず一方的に強制するのであり、それは一種の暴力である。人は暴力の前で受け身となるから、ビートに支配された楽曲に対しては、受け身とならざるをえない。この点、ビートを強調しないクラシック音楽は、聞き手が主体的に音楽の流れに踏み込まねばじゅうぶんに理解できないのであって、音楽に対し主体の積極性/志向性が要求される。
 主体の受け身(不動性)を要求する暴力的なものは、テレビや動画などに慣れ親しんだ人々によく適合する。彼らは暴力を浴びることなしに楽しむことができないのかもしれない。これはきっと消費社会の特徴だろう。現代社会の消費は消費者が主体なのではない。消費者は市場の暴力を受容することしかできない。消費者は商品を選別しているつもりで、実は市場が強制する「時間」のなかを漂っているだけなのではないか。

 さて、エフェクター等の電子的操作を通したサウンドの豊穣さに関しては、エレクトロニカに限らず、こんにちのテクノロジーがもたらしたものとして、あらゆるポピュラーミュージックに活用されている。
 目新しい音はないかと、アレンジャーたちはいつも探している。
 が、一般的なPOPの歌ものでは、そうしたエレクトロニック・サウンドは、何かの「表現」(=意味すること)を補強するために用いられるのに対し、エレクトロニカでは、それは「意味」に結びつかない。つまり、そこでの「音」はラカン的な意味での「シニフィアン」なのである。

 私は、オウテカに「死」の表象を見、そこに魅力を感じるのだが、実際に私が似たようなことをやろうとしても、そうはならないと思う。
 それは長らくクラシックに寄り添ってきたからか、本質的にロマンチックな心情を持っているためか。
 私流の「エレクトロニカ」をいかに生成するか、まだしばらくイメージ・トレーニングが必要だ。

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