item 構造的脱臼

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written 2007/4/28

インヴェンション第2集の第2曲が完成したのだが、iMac修理中のため、MP3公開まで行けません。
しょうがないから公開しないまま、次の曲の作曲に取りかかります。さて、修理完了してiMacが戻ってくるまで、何曲完成しているかな? なぜかちょっと楽しみだ。せっかくの自作曲をまとめてアップしてしまうのはもったいない気もするけど・・・。

先に公開したインヴェンション2-1 二調もそうだったが、いよいよ音楽の脱臼化が進行しており、今書き上げたところの第2曲にも色濃く症状が出ている。
フォーレのピアノ曲等を聴いていると、中期あたりからリズムが何となく脱臼してつっかかる感じがあらわれており、和声外の音の使用によるメロディーの脱臼も徐々に見られ始める。
もちろん、フォーレは調性音楽の枠内にあくまでも収まっているわけだが、「現代音楽」を知ってしまっている私たちは、もっと激しく脱臼することになる。
メロディーはそこここで急に立ち止まって断片化し、リズムもすんなりとは流れていかない。
聴き慣れてくるとフォーレ程度の脱臼なら味わい深さを醸し出しているのだが、「現代音楽」的な拡散にまで発展していくとかなり居心地が悪くなってしまうだろう。

先日書いたインヴェンション2-1で言うと、民謡風のテーマと和声感で始まりながら、あらぬ方向に旋律線が走っていき、和声的に脱臼する。いきなり無調の谷底に落ちてしまうのだが、さらに全然主題と関連性の無い第2主題が唐突に現れ、消えていく。こちらは構造の脱臼である。まったくもって座り心地が悪く、均整のキの字もなくなってしまう。
しかし、あえて理論化するならば、この「脱臼」効果とは、ブレヒトの「異化」のことだ。つまり、常識的な「表現技法」からははずれた手法をとることによって、観客/聴衆/読者は物語のストレートな意味内容への「理解」(劇中人物への感情移入)を妨害される。
このため、異化された表現体は受け手を覚醒させ、作品中の要素から距離を置き、批判的なまなざしでそれを見つめ直すことができるのだ。
だから、脱臼されたエクリチュールは受け手をはっとさせ、立ち止まらせ、思考をうながす。問いをみずから喚起する。

このような「作品」は、怒濤のような感動で受け手を包み込んだり、特定の感情に溺れさせるようなことはない。エンターテイメントとしての音楽に求められるのは、こうした作用なのだ(たとえば後期ロマン派の音楽にもこのようなねらいの作品はたくさん存在し、人気が高い)が、私は「脱臼」をとおして、「そのような聴衆」を周到に排除してしまっている。
だから私の音楽は、多くの人の心をつかむことはないだろう。私がおもしろがって脱臼させているエクリチュールの諸要素は、それをおもしろがるのはもしかしたら私ひとりなのかもしれない。

今日書き上げた「インヴェンション2-2」もなかなか脱臼している。まだ公開していないのに言うのもなんだが、フーガのようでフーガでなく、調性音楽だと思っていたらただちに裏切られる。だから何が言いたいの? と多くの聞き手は問い、批判を浴びせてくるだろう。そのような問いに対しては「何を言わせたがっているの? あなたが作者に言わせたいと思っているようなことに何の意味があるの?」と逆に問いかけるのが、現在の私の流儀である。

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