item ブロンテ『嵐が丘』

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written 2006/8/24

エミリ・ブロンテの『嵐が丘 』なぞをいまさら読み返したのは、これまた再読のジョルジュ・バタイユ『文学と悪の中でこの小説が絶賛されていたからだ。

エロチスムとは、死を賭するまでの生の讃歌ではないだろうか。...(中略)...
性欲発情の根底には、自我の孤立性の否定が横たわっている。つまりこの自我が、自己の外にはみ出し、自己を超出して、存在の孤独が消滅する抱擁の中に没入する時に、はじめて飽和感を味わうことができるのだ。...(中略)...
世のいわゆる悪徳とは、まさしくこの奥深い死の介入に由来するものだ..(中略)...
死すべきものたちのいかなる愛欲も、『嵐が丘』の主人公たち、キャサリン・アーンショーとヒースクリッフとの結びつきほど適切に、以上のことを具現しているものはないし、また、エミリ・ブロンテほどの迫力をもって、この真理をさらけ出してくれたひともいない。

ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』(山本功訳 筑摩叢書)より「エミリ・ブロンテ」1955

この小説の中に、それほど強烈な「悪」があるのだったか。
『嵐が丘』読み返してみると、まあ、よく言われるように稚拙な部分のある作品で、そこはおいておくとして、ヒースクリフとキャサリンとの恋愛の激しさは、たしかに面白い。
ヒースクリフは愛することによって、まさにキャサリンに破壊と死をもたらす。またキャサリンも、ヒースクリフを愛することによって、自己の破壊と死をまねく。
キャサリンの死という一点をめがけて突き進んでいく前半部のクライマックスは確かにすばらしく、「」の力に満ちあふれている。

だが、キャサリンの死後、すなわち物語の後半はちょっと退屈だ。
ヒースクリフは少年時代に自己をさいなんだ者に復讐する。たしかにここにはバタイユの言うようにサディスムの悦楽が垣間見えるのだが、モンテ・クリスト伯の復讐ほどにはカタルシスがない。
ヒースクリフという「」の身体はどんどんしぼんでいくように見える。

キャサリンとともにヒースクリフは死ぬべきだったのだが、恋愛自体が結ばれなかったため、共に死ぬこともかなわず、男は生き延びてしまったのだ。だからヒースクリフは敗残者でしかない。
悪のエネルギーの残滓を、だらしなくもらしているだけなのだ。
だから彼の所行は、さほど「ワル」なわけでもないように見える。むしろ、あわれなのだ。

やっと最後にヒースクリフも死ぬことになり、墓中のキャサリンの横にねむり、二人で幽霊となるあたりで、なんとか物語は収束する。

バタイユはさらに、キャサリンとヒースクリフの少年時代を「悪」として捉えたりもしているのだが、ここはあまり納得がいかない。

それよりも、愛の対象の破壊と死をめがけて(そしてたぶん、本当はじぶんじしんの死をもねがって)突き進む前半のヒースクリフの姿に、自分を見つけてしまい、読んでいて憂鬱になってしまった。
そして、私の考える「」とは、やはり、こういう欲動なのだと気づいた。
つまり、自己の利益を求める計算に基づく「悪徳」ではなく、ただただ、破滅と死を追い求めていくような、欲動。この欲動(タナトス)が、情愛をとおして他者や眼前の世界をも巻き込んで激流となってゆくとき、それこそが「」と呼ばれるにふさわしいのだ。

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