item フーガの精神、その構造

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written 2003/6/16 [ updated 2006/5/26 ]

どうも自分のやろうとしていることの整理がついていないのだという気がした。
そもそも、なぜフーガなのか? との問いに、いまだに答えることができない。 バッハのフーガの意義さえつかめば、どうしてもフーガでなければならないという理由はない。 ヒンデミットのように、とにかくひたすらフーガに向かう、というのは単に趣味の問題だ。
ストラヴィンスキーはヒンデミットに比べればたまにしかフーガを書かないが、 それらの音楽はフーガより価値が低いというわけでもない。 私は出発点の疑問に立ちかえる必要がある。

フーガの感触的魅力はエクリチュールの複雑さにあり、ひとつの旋律線=表出に対立して別の表出が現れてくることによって、絶え間なく(表出する)主体が客体化され、主体が更新され、その間に無限の心的葛藤が繰り広げられることにある。
と書くと難しいようだが、フーガを実際に弾いてみればこのことはすぐに実感される。フーガとは、精神の果てしない振幅であるはずだ。そこでは旋律や和声が、常に「できごと」として立ち現れるのだ。

ピアニストが何を考えてピアノを弾くのか知らないが、私はピアノを弾くにあたって、対位法を駆使していない曲を取り上げるのは苦痛だった(MIDIなら別だが)。
全然おもしろくないのだ。ショパンやシューマンを弾いて何が面白いのか。・・・なんてことを書いていると変態かと言われそうだが、要はエクリチュールなのだ。テクストの快楽をどこに求めるかということだ。
ショパン、シューマン、ラフマニノフ、弾いて楽しければ結構だが、私は、楽しくない。私が言いたいのはそれだけだ。

バッハはあくまでもバッハのままであり、どれだけそれが空前絶後にすばらしいものであろうと、それはやはり、時代の様式に則っている。時代の様式とは、個人が超えることの出来ない言語体系という「枠組み」だ。
ところで、私はフーガを(特に和声面で)著しく自由なものにしようとした。必ずしも成功はしていないが、部分的にはそういうやり方を憶えつつあるのは確かだ。だが、それは表面的な現象に過ぎず、私はまだ、バッハのフーガにこめられたほんとうの精神に届いていやしない。

前述の「主体が無限に客体化されていく」という、思うに「フーガ的」な構造は、実はこのサイトの中心テーマにちかい。
それは、自己から他者へと飛翔しようとする、果てしない試みの連続であり、絶え間ない自己否定・非完結性であり、転身であり、共同体からの脱走であり、光に向かっての極限の欲望である。
そこではもしかしたら、構造主義の言説が螺旋状に自家撞着に陥っていくあの場所、つまり、たとえばバルトが一定の言説を構造的な解釈から批判しなおし、批判した自己の言説をさらに批判し、それをまた批判し・・・という形で、言語→メタ言語→メタ・メタ言語→・・・といった終わりのない逃走を体現したあの場所と通底しているのかもしれない。

・・・だが、こんなことをただつぶやいていても何にもならない。
私は思想家でも批評家でもない。私は、「書きたい」と願っている存在だ。だから、書くべきものを書かなければならない。
問題は私が「熟練していない」ことではない。「考えが甘い」ことだ。
熟練などは誰かに任せておけば良いだろう。
私がつとめなければならないのは、欲望の露出、・・・いやそのまえに、地獄に落ちることだ。

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