item サウンド志向の時代にさからう

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written 2012/9/20

 ずっと以前にも考え、文章に記したこともあるが、音楽の歴史はいま、「サウンド/音響」重視の方向にどんどん傾いている。
 20世紀以降の西洋のクラシック音楽の伝統も、現代音楽の先端のほうでは、モティーフがどうこうというより、「より新しい響き」を追い求めるのが主流になっているかもしれない。
 かつてMIDIが全盛だった時代、私は若かったが、やがてネット回線の高速化、家庭のPCのハイスペック化に伴ってMIDIはMP3にとってかわられ、さらに「動画」が普通になってしまった。MIDIからMP3への転換というのは、実に凄まじい転機であった。「曲作り」から一挙に問題は「サウンド」に移行したのである。
 近頃コンピュータで音楽を作っている若者たちは時代の申し子だから、サウンドにうるさい。とりわけエレクトロニカやテクノ、ハウス、クラブ系をやっている者たちは、Mixがどうしたとかいうことばかり、しきりに問題にしているようだ。
 私は20歳頃、J. S. バッハのフーガをピアノで弾きまくったのが出発点で、すなわち「サウンド」よりもどちらかというと「コンポジション/作曲」を問題にする。本人が意識していなくても、思考が西洋近代音楽に根ざしているのだ。バッハの楽曲はさまざまな楽器で演奏しなおされる可能性を秘めている。つまりこの「書かれた音楽=エクリチュール」は、サウンドそのもの(音色)の設計とは別に、さまざまな音色に置き換えてみても価値を持ちうるような、エクリチュール/コンポジションの論理(ロジック)構造を中核にしているように思える。極端なことを言えば、だが。
 私は考え方があくまで「コンポーザー」であって、どこでどのようなフレーズが、どのようなハーモニー、リズムが配置されるか。あるいはその相互関係性が最大の関心となる。ということで、最終的にMP3の形で作品を公開しているものの、私はサウンドメイキングに関してははなはだ手抜きをやっていることが多い。イコライザーの設定など、いい加減である。どちらかというとゴテゴテと混濁したような、複雑な音響の方が好きであり、人を気持ちよくさせるよりも何か不吉な不安定さ/アンバランスさに巻き込んでやりたい、混乱させてやりたいという希望の方が強い。

 一方で、「サウンド」ばかりを追い求める若者たちの作る曲は、おなじ楽節の繰り返しが多く、構造は単純、これなら作曲に時間はかからないだろう、と思われるような、工夫も何もない凡庸な楽曲ばかりだ。そう、コンポジションとしては甚だ単純無芸なので、その分、「サウンド」づくりが命になっているように思われる。こうした凡庸さ/退屈さは、「あらゆる様式が出尽くしてしまった」と言われている現代の音楽界に特有の絶望感の結実である。だからこの凡庸さを私は批判しない。物足りないと思うことはあっても、退屈さそれ自体が現代的だと思える節がある。
 
 音響を整えるという作業は、作曲というよりもどちらかというと、音楽という名の商品パッケージングに熱中することなのではないかという気がしている。

 原初の音楽は屋外での歌や叫び、太鼓、笛であったろう。屋外では音はあまり「響かない」。民俗的な古典音楽を、こんにちのホールやスタジオで録音する例もあるようだが、当然ながら、屋外で演奏されるべきか屋内で演奏されるべきかという問題を、音楽的な観点から決定しようとしても独りよがりにおちいってしまう。文化としては、屋外で常に演奏されてきた音楽ならば、屋外で演奏するのが正しい。スタジオの方が響きが「よい」などとこんにちの「サウンド主義者」がぶつくさ言っても意味はない。
 そもそも、あらゆる音世界がわれわれを取り巻いている中で、普遍的に「この響きはよい」「これは悪い」などと言い切ることができるのだろうか?「ここちよさ」の個人的な判断を人に押しつけようとしているだけではないだろうか?
 しかも音圧は強く感じられるようにとか、周波数の各帯域がそれぞれ十分に活用されて、とか、そういう方法論はパッケージングの問題であって、音楽=芸術そのものの課題とは思えない。しかも、なんとこんにちの「サウンド」は画一化されてしまっていることか。
 私は音楽を多文化、多コンテクストのなかで非常に幅広くとらえたいと思っているので、現在のような画一化されたサウンド・パッケージングの思想には、商業以外の目的ではあまり賛同したいと思わない。
 とはいえ、「自分がサウンド・パッケージングに時間をさくこと」が嫌いなのであって、サウンド・パッケージングが見事に工夫された上出来なハウス、たとえばDinkaなどを聴くのは大好きだ。うつくしく磨かれた、見事なパッケージだと思う。プロでないクリエイターの作品にもしばしば目を見張る洗練がある。

 時代は確かに「サウンド重視」の方向に向かうばかりであり、私が親しんできたような「コンポジション」の論理は時代遅れだということは確かだ。・・・こう書くと、まるで問題は近代西欧の「感覚 vs. 理性」という主題に置き換えられてしまいそうになることに気づき、はっとする。
 では私は、大時代的な「理性主義者」だったのだろうか。
 この対立は、さらに言えば、現代音楽/クラシック音楽的な思考と、流行のポピュラーミュージックの価値観との対立を代表しているようにも見える。
 が、そこまでおおげさに論を広げないことにしよう。

 単純に、コンポジションとしても充実し、サウンド的にも洗練されたものを作ることができたら、何も問題はない。けれども、コンポジションに特化したミュージシャンもたくさんいるはずだ。シンセサイザーのプログラム、エフェクトの設定、録音、ミキシング等々は、実は業界ではそれぞれに専門家がいて、1枚のCDをつくるために沢山の人名がクレジットされる。
 これが理想である。Mixが得意な相棒がいれば任せてしまいたい。ボーカロイドの打ち込み得意な人に、ボーカロイド・パートは任せてしまいたい。もちろん、歌詞も動画も専門家に全部お任せだ。クラシック曲を作る際の「楽譜づくり」という面倒な作業も誰かに(無料で)やってもらえたらラクだろう。
 しかし、私は無名なアマチュアなので、とりあえず全部一人でやらないといけないという、悲嘆すべき閉塞に閉じ込められる。ボカロ系ではピアプロという、同人誌的なクリエイターの集う場もあるが、私の音楽は特異すぎてあまり協力を得られなさそうだし(笑)。

 狭義の「作曲」以外のことには悩まされたくない。そうでなくても、「作曲」だけで私は始終苦しめられているので、ほかのことにあまり時間や労力を割くことができないのだ。
 まあ、私みたいに無能で凡庸なアマチュアが希望を並べる権利などないだろうけれど。

 それに、本当は「コンポジション」という概念も「サウンド」という概念も、「音楽」という広大な世界のほんの一面を示しているにすぎない。とかく「サウンド」にこだわる人には、他者をやたら攻撃したがるとか、自分の価値観だけを絶対視するとか、人間的にどうかと思われる人が、残念ながら少なくないような気がする。どうも音楽家は、文学者や画家と比べて人間的に破綻した人たち(笑)が多いような気がしている(自分もそうだろう)。あまりにも感覚的な独断の世界で、言葉の論理が届かない場所で、自己全能感にひたりすぎて、みんなおかしくなっていくのではないだろうか。この自己全能感による人間性の破綻は、記号の世界に住むコンピュータ関係のプログラマなどのそれと似たものであろう。
 妄執に満ちた余計な言説も、方法的に凝り固まった価値観も、ステレオタイプな価値の固着化現象も、いちど全部無に帰して、まっさらな状態で「音楽」に出会い直したらどうか。すべての価値観は無常であり、何よりも「無」は強靱なはずだ。そうだ、いちど「無」に触れてみようか。

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