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written 2010/10/27

クロード・レヴィ=ストロースが示したように、どの文化にあっても、人間は相対立する二項目を想定し、この対立モデルに基づく思考形式から逃れることができない。
「反対語」なんてものは一体誰が決めるのかと首をかしげざるをえないものもあるけれども、言語体系において重要な概念・命題はそれぞれに対立するものを持つ。
ところが語句にも概念にも「主体」があるわけがないから、この「対立関係」は、じつは私の「頭の中」にしか存在しない。

この対立/闘争イメージの最も古い時代の典型の一つは、ゾロアスター教における善/悪の対立だろう。この善/悪は人間たちの眼前で、頭上で、常に戦い続けているらしい。
近代的哲学的なモデルで言うと、有名なところで「心身二元論」。
西欧の近代的な知は、身体に対立する「心」、あるいは感覚・欲望に対立する「精神(ないし理性)」が尊ばれた。しかし20世紀の「自然科学に支配された」一般的知においてはこれが逆転し、身体性や感覚・欲望が強調される傾向になった。

背反的な二項のうちどちらに荷担するか? 実際のところ、それは時代の流れによるシーソー・ゲームみたいなものだ。
あるとき人は一方の側を支持し、また何かの拍子に、別の一方を支持することにもなるだろう。
二項対立には絶対的な答はない。なぜならこの対立関係は、「人間の頭の中」にしか存在しないものだからだ。にも関わらず、我々はその都度、何かを選択し、何かを否定せざるを得ない。

二項対立の一方は、支持されるAに対するひとつの存在Bである必要は必ずしもない。Aに対立するのが 「非-Aであるところのすべて」という形式を装うこともある。だがほんとうはその「非-A」は非-Aなるあらゆるものの総和なのではなく、Aと対立するようななんらかのイメージに基づいたゲシュタルトである。
たとえば音楽の話で言うと、
やっぱりクラシックはいいなあ
やっぱりジャズに限るなあ
という感想は、それぞれクラシック、ジャズを、非-クラシックないし非-ジャズとして特徴づけられると考えられたゲシュタルト/心象に対立するものとして提示している。だから言外に、非-クラシックや非-ジャズとして抽出されたその表象を否定していることになる。ここで批判/否定されている音楽はどのようなものなのか明言されていないし、語った主体自身も明確に意識してはいないが、心の奥底では、かつて出会ったなんらかの音楽ないしジャンルが「否定」の対象になっているに違いない。

ぼくは不幸だ。どうしてみんな、あんなに楽しそうに笑っているんだろう?
こういったモノローグにあっては、「ぼく」と「みんな」という二項対立の関係性が注目されているが、もちろん、「みんな」とはあらゆる人類の総和なのではなくて、そのようにイメージされた表出体である。(この例では、逆説的に・アイロニカルに、 自己を弁護するため「みんな」が否定されている。)

さて相対立するこの関係性の、「一方だけを支持すること」が、人間にとってはまさに宿命的なものだと思われる。事実、両者(自己を含めた万物)を同様に支持することは、人間のいとなみとしてはほぼ不可能なのではないかという気がする。
みんなちがってみんないい
などという最近人気の命題は、「人間集団はある観点からは少なくとも2種類に分類することができ、一方は正しいが、他方は批判されるべきである」という通常の倫理的判断に「対立」し、この二項関係を戦おうとしているにすぎない。
もし本当に、「何も選択しないこと、何も棄てないこと」のうちにとどまろうとしたなら、人間は行動不能に陥ってしまうのではないか?

どんなタイプの音楽もいい。どれがよくてどれがダメだなんてことは、ひとそれぞれであって、実際はどれもがみんないいんだ
こういった感想は、ある意味もっともであり、私も時にそんな気分になる。
しかし、自分で音楽(行動)しない場合ならいいが、みずから音楽(行動)する際には、この考え方は全く役に立たないばかりか、障害ですらある。
音楽を作るにしても、何を作るにしても、人は絶え間なく「選択」せざるを得ない。選択しなかった無数の可能性を取り戻すことはできないし、そんなことをしていたらきりがなく、身動きができなくなる。

いずれかを選択し、志向すること。そうして、捨て去った側を否定すること。
これこそが生命的な動きなのである。これが生きて在ることの力動であり、選択と否定の反復が、生のリズムを決定するのだ。
もちろんその選択のメカニズムはコンピュータのように一律ではない。
あるときはAを選択するが、またあるときはBを選択するだろう。この選択・否定は「理性」のみによる理詰めの判断では、決してない。どんな主張にも、感情や欲望が伴わなかったことはない。理性・感情・欲望はほんとうは不可分なものであって、我々は特定の感情や一部の理性に従うのではなく、つねに人間存在「全体」として行動している(メルロ=ポンティ、ヴァイツゼッカーを参照)。
人が何かを選択・否定する際に、その判断が基づくのは「道徳的論理だけ」とか「理性的判断だけ」であった試しはない。学術的議論においてすら、「感情」の要素が一片たりとも裏で働かなかったことは無いに違いない。
感情とか理性とかの区分を超えて、私という「全体」が、あるときある方向に進もうとする。それを抑圧してしまうと、心理的にエントロピー最大の状態となり、まさしく「灰色」となって沈滞してしまうだろう。それは一個の「死」を抱え込むことであり、何か予期しないものを発病する原因にもなるだろう。

人間の「否定」の力は凄まじく、とりわけそれが憎しみに変化した場合には恐ろしい。
論理も倫理も越えて(しかし論理は「後付け」として利用されるだろう)、「否定」の力は砲弾のように飛び、目標を粉砕しようとする。
(自分の経験から言うと、女性がいったん誰かを否定し始めると、泥沼のような地獄が始まる。もちろん男性にもそのような状態はあるが。)
この動きはなるほどしばしば「悪」となることもあるだろう。しかし、これもまた、生命的なエネルギーの噴出であるので、理屈で完全に押さえ込むことは難しい。何かをきっかけにエネルギーの流れが転換することを期待するのが一番いいかもしれない。
たぶん力動心理学的な概念、フロイトの「リビドー」のような比喩的概念こそが、私たちの選択・否定の動きを説明できるのではないかと思う。

私はときに何らかの音楽を否定し、攻撃する。だがその同じ音楽を、あるときは擁護する場合もあるので、常に矛盾を抱えているわけだが、こうしたリビドーの力動を停止させ説き伏せることはできない。いや、そのような力動を抑圧することは、結局は人間の創造性や生の躍動を押しつぶしてしまうことになるだろう。
なぜなら、「否定」もまた欲動であるからだ。
「いじめ」の心理がおそらく性欲の変形のひとつであるように、フロイトやメラニー・クラインが想定した「タナトス」もまた、エロスの発現の一形態ではないかという気がする。この荒れ狂う生命のエネルギーを自ら解読し、なんらかの形で転用することができれば、私たちは優れたなにものかを生み出すことができるかもしれない。

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