item 音楽のゲシュタルト

textes ... notes > 音楽

written 2010/5/19

 エレクトロニカ/IDMっぽい曲を作ろうとして苦戦している。
 オウテカに触発されたものの、結局従来の「自分の音楽」から大きく離れることができず、ずいぶんと悩み・迷いながら作っているところだ。
 
 特にクラシック的な分野で作曲していたとき、私の音楽はどんどん曖昧で不透明なものになっていった。極度の複雑化・構造的脱臼を推進した結果なのだが、当然ながら、非常にわかりにくく、まとまった印象を与えない作品となり、聴き手の評判はよくなかったと思う。
 つまり私の従来の作品はどんどん明確な「ゲシュタルト(形態)」を失い、カオスの様相を呈し、エントロピーが増大していったのだが、今回の作品も、どうもその気配がある。
 音楽には明確な「意味」や「ゲシュタルト」が必要なのか?

 最近V. E. フランクル『意味への意志』(山田邦男監訳、春秋社)を読んでいる。
 フランクルは人間とは「意味」を求める存在であり、現代社会の中で無意味感(実存的空虚感)にとらわれることで病んでゆく、という考えのようだ。ここで言われる「意味」とはほとんど「生きがい」と同義であり、なんだかアメリカ流の社会/自我心理学みたいな説教臭さを感じないでもない。が、フランクルは現象学/実存主義にも根ざしているらしい(ナチスの迫害を体験し『夜と霧』という有名な本を書いている)。

 さていつもながらの問いになってしまうが、音楽にとって「意味」とは何か?

 言語と違い音楽は直接は何も指示しない抽象的表象なので、その限りで「意味」はない。しかし、ある種の音の塊やそれらの結びつきには確かに「意味作用」のようなものがあって、聴き手は絶えまなくそれを求めている。聴き手は音楽を「意味」として受け取ることができないとき、「この音楽は理解できない」と言う。つまり、理解できないということは、言語化して自我に取り込むことができないということだ。
 抽象物に過ぎない音楽要素(音など)は、それ自体意味をもたないが、いくつかの音楽要素相互の関係性、その塊が、さながら「意味を持っているかのように」振る舞い始める。ゲシュタルトの誕生だ。
 
 たとえば我々はショパンの「別れの曲」の冒頭部分を聴いて、全員が同じ感覚を持たないにしても、一定範囲で共通の意味認識をしていることは間違いない。「別れの曲」冒頭と、同曲の中間部、あるいは同じショパンの「革命エチュード」を並べてみて、おんなじ情緒だと主張する人は少ないだろう。
 音楽要素の塊=ゲシュタルトは、記号論でいうとシニフィアンとなり、任意の意味内容(シニフィエ)と結合する。だがシニフィアン-シニフィエの結びつきは完全に任意であるわけではなく、文化の言語体系=ランガージュのなかでその関係性がほぼ規定されている。
 ラカンふうに言うならば、シニフィアンは別のシニフィアンとの差異によってシニフィアン連鎖を形作ってゆく。

 音楽においては、一個のゲシュタルトが必ず特有の意味を喚起させるわけではないが、聴く者の気分や前後の文脈、文化のランガージュの様態や状況によって、何らかの「意味」が主体によって付与される。要するに、シニフィアンは主体との接触のなかでシニフィエ(意味内容)を獲得する。このへんはゲシュタルト心理学とおなじだ。

 では私はいかにして、音楽のゲシュタルトを混乱させてきたか?
 不安定な場を作り出し、絶えず意味方向が異なるものを同居させたり、あるいは全く違うランガージュから来る「異物」を挿入してやればいい。
 たとえばショパン「別れの曲」冒頭の数小節のあと、突然インドの古典声楽を挿入してみる。これらは全く違うランガージュから出てきたものなので、ふつうの聴き手は意味がわからなくなる。外部の侵入によって意味は喪失される。瞬間的にランガージュが破壊されるわけだ。
 ジョン・ケージがラジオのチューナーを任意に操作したときも、そのような「無化作用」が生じた。

「無意味化」がフランクルが指摘するような現代病だとしても、私には、無意味の認識こそが現実なのであり、意味の喪失という事態をみずから引き受けるのでなければ、こんにちの世界を生きていることにならないように思う。
 特定の意味を「表現」することを私は極度に嫌った。19世紀ロマン派の「キャラクターピース」というモデルこそ、私が徹底的に拒否したものだった。特定の情緒内容を「表現」するために音をいくらでも放り込んでいこうという、その姿勢になにかまやかしを感じるのだ・・・。
 なぜなら、フランクル的な「意味」(価値)とは相対的なものにすぎず、絶対的な「意味」(価値)はどこにも存在しないというニヒリズムに、私たちは生きざるを得ないからだ。

 が、このニヒリズムの果てに、私は聴き手を失わなければならなかったし、そこと逆方向に、つまり「POPなわかりやすさ」に走ったとしても、根底のむなしさは変わらない。

 明確な意味内容が得られなければ聴き手は満足しない。
 では無意味な世界から眼をそらすことなく、意味ありげなゲシュタルトを創出することはできないだろうか? あるいは明確なゲシュタルトでありながら、意味をふりはらい、ランガージュを、「この場所」を、乗り越えることはできないのだろうか? 
 いや、確かに芸術とは、意味を「表現」することではなく、本来、多義的なゲシュタルトを提出することなのだ。とりわけ、バッハなどの「絶対音楽」や、彫刻の類はあきらかだ。
 私がつまずいてしまうのは、「意味」を越えたところでゲシュタルトを創出するというその点にあり、不安定な自我や感情や、安易を求める怠惰や、それから「意味への意志」が、邪魔をしているのだろう。
 具体的な手立てが相変わらずつかめず、あるいは「乗り越え」を自ら無意識に恐怖してしまうため、私はいまださまよい続けている。

このコンテンツに投票

■ この記事/文章が気に入りましたら、投票して下さい。

まあまあよいと思った
とてもよいと思った

3 point / 投票数 2 3point

feedbackによるコンテンツランキング
informationfeedback機能について

現在のカテゴリ : textes ... notes > 音楽

1312261

* * *

Written by nt.

無断転載禁止
引用箇所や掲示板への投稿など一部を除いて、当サイト内のすべての 文章・楽曲・画像等は作者ntの著作物です。
▼Webページへのリンクはご自由にどうぞ。
http://www.signes.jp/textes/
WebMaster: nt - Contact | Information | TopPage

Copyright (c) 2002-2010 nt. All rights reserved.