item 融和しない世界のための音楽・試論

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written 2004/4/4 [ updated 2006/5/26 ]

融和しない世界のために書かなければいけない。
同一性ではなく差異を求めること。
差異を解消するために共同の幻想をひっぱりだすのではなく、あらゆる差異を受容しうるほどの強靭な精神をきたえあげること。

(融和しない世界、と書くが、これは絶望ではない。たしかに紛争は絶えないが、紛争の原因は差異であるというより、素朴な「力への意志」であるかもしれない。そして、「力への意志」とは差異を蹂躙し、自己という幻想を際限なく拡張しようともくろむ夢なのかもしれない。
差異を見出すことは知の必然であるはずだ。)

いま、ここに 「ミ・レ・ド・ミ」という単純で無個性な主題がたち現れる。
この動機の背後にあるのはド・ミ・ソの調和音なのか? それともラ・ド・ミの短和音に乗せるのか?
あるいはそれを、七の和音の「シ・ラ・ソ・シ」に読み替えることも、増和音に乗せることも可能だ。
だが、さらに別の試みとして、今度はまったく異なる調性の和音・スケールの中にぶちこんでみる。
「他者」の襲来は絶え間なくあらわれ、息もつかせず、精神をかく乱する、この衝撃力を私は欲望する。

結局、ドビュッシーの音楽は見事であると同時に、すこぶる退屈なのだ。あのピアノ音楽のエクリチュールにはなんのおもしろみもないと言っても、さほど言いすぎにはなるまい。たとえ、それが耳にとってははかりしれない快楽を提供しているという事実を認めたとしても。
ドビュッシーやスクリャービンの和声にひかれなんとなく接近してみると、音楽内部では互いの音要素が溶解しあってしまい、あらゆる差異は消滅してしまう。
だから、結論をいうと、和声の溶解へと突き進めば突き進むほど、対位法の深奥の意味としての「差異のダイナミズム」は遠のいていくだろう。

だからといって、まっすぐに調性に戻るべきだというのも偏狭だ。J.S.バッハの見事なフーガが私の心を強く揺さぶるのは、「重心の移動」ともいうべき心的物理学のリアリティによるところだろう。
その重心というのは、ひとまずは調性秩序によって支えられている。
しかし、調性秩序に支えられた「対位法音楽」、バッハを模したフーガ作品がすべて感動的であるなどとは、とうてい言えない。

古典的な調性秩序に頼らずに、対位法的な衝動を体現するために考えられるひとつの方法は、主題の入りで多調的な技法を用いることだった。
こうすれば、たとえ印象派・神秘主義に似た和音を用いていても、主題の入りで転調するかのような心的転換をもたらすことができるかもしれない。
しかし多調を多用すれば単純に響きは悪くなり、「耳を傷つける」音楽になってしまう。
だから、楽曲全体の響きの動きをコントロールするために、心的レアリスムともいうべきものが必要だ。
すべてがリアルであるときに限って、破綻は正当化されうるだろう。
また、心的な緊張があれば、自然なこころの動きに沿って、弛緩がやってこなければならない。このような素朴な力学要素も満たさなければならない。
そのためには、あらゆるポエジーを用意しておく必要があるだろう。

真の目標は、バッハを模倣することではなく、その強靭な音楽に秘められたほんとうの意味を捕獲し、それを自身の器にすくいとることだ。
そうして融和しない世界に身を投じる。
他者との出会いに賭けるのだ。

「ミ・レ・ド・ミ」はかくして他者たりうることができるのか? それはまたぞろ、幻想の同一性のなかに甘え始めはしないか?

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