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written 2004/3/7 [ updated 2006/5/26 ]

劇作家としての才能、としか呼びようのないものがある。
いや、もっといい呼び方がありそうなものだが。
たとえばモーツァルトやバッハには(まったく違うやり方ながら)見事にこの才能が備わっている。
ストラヴィンスキーにはこれが、強烈に現れている(彼の作品にあっては、これだけがすべてだ、と言いうるほどに)。
パブロ・ピカソにもこの才能の輝きがまばゆいほどに見える。
根本的にはシェイクスピアが、この尺度の規範なのだが、文学ではほかに、ドストエフスキーの名もここにひきだすことができよう。そして、最近私が観察している泉鏡花もこの系譜にさしはさむことができるかもしれない。
逆に、この才能に欠けているのではないかと思われるのは、たとえば(ここで名を挙げるのは悪意からではない! 私が好きな作家たちもこの中には含まれている)ショパンであり、スクリャービンであり、ドビュッシーであり、シェーンベルクであり、ルノワールであり、ヘッセであり、太宰治である。
そうだ、この才能に欠けるからといって芸術家として二流だというつもりはない。
私がいいたいのは、ポエジーを超えるメタ・ポエジーが表出された作品にであうことはひとつの衝撃であって、それはひとつの得がたい体験になる、それは深淵のような何かを持ちうる、ということだけだ。
これは、個性とかムードとかとは別の次元の問題であり、きっと作品と言うもののなりたちの、根幹にかかわる部分である。

ポエジーの表出が作品の最終目的であるとするならば、作品は一個の美学を抜け目なく駆使し、過不足のない表現を得て洗練されていくだろう。
この典型はエドガー・ポーの構成論に要約されている。
ここでは修辞学が重要なものになる。この技術が極められたとき、たしかに作品はすばらしい感銘を与えることができるだろう。たとえば・・・モーリス・ラヴェルを見よ。

一方で、劇作家たちの作品は、しばしばポエジーの洗練された提出と言う範疇をこえて、異なったポエジーのあいだをゆらぎ、エクリチュールは多次元の構造を持ち、こころは引き裂かれる。
バッハでは対位法書法の、巧緻なエクリチュールのなかにポエジーは多重化され、さらに堅固なものとなり、人間的な精神の振幅と、強さと弱さを包含して、敬虔に鳴り響く。
モーツァルトではこうした構造性とはまったく別に、時間的推移のなかで、あくまでも心的にリアリスティックなやり方で、異種のポエジーを貪欲にむさぼりながら、なめらかに劇が演出される。彼のシェイクスピア的な才能はオペラによくあらわれている。
ストラヴィンスキーは完全にじぶんが劇作家に徹することを自覚しており、素材を任意に持ってきながら、それらを結合し、じぶんじしんのもつ推進力、かわいて冷徹なメタ・ポエジーの中に配置しなおす。この点が、よく言われるように、パブロ・ピカソとそっくりである。
ドストエフスキーはまったくポエジーを洗練させようとしないが、 彼の小説の中では個々のポエジーの「場」は個々の人物にわりふられ、 人物が入れ替わるごとに次元はかわり、さらに、人物同士が対峙しきわどい会話を火花を散らせておしすすめようとするとき、異様なメタ・ポエジーが出現する。
泉鏡花の場合は、これらの劇作の大家たちとは違う構造で、地のエクリチュール(文体)そのものにめくるめくようなメタレベルがしかけられており、一歩進むごとに視界がぐるぐると渦を巻くような緊張感をかもし出し、ポエジーの次元をおしあげようとしている。
鏡花のエクリチュールが近接しているのは、なんと、ガブリエル・フォーレである。(この比較は、やはり、意外だろうか!)

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